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東京高等裁判所 昭和42年(う)1264号 判決

本籍 東京都練馬区北大泉町一、〇二三番地

住居 東京都練馬区関町二丁目一五二番地

庄建設株式会社内 大工佐藤功

昭和一八年三月二六日生

右の者に対する強盗強姦、強盗殺人被告事件について、昭和四二年四月一二日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し東京地方検察庁検察官検事荻野三郎から控訴の申立があったので当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、東京地方検察庁検察官検事河井信太郎作成名義の控訴趣意書および東京高等検察庁検察官検事松本卓矣作成名義の控訴趣意書訂正申立書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人大崎康博作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、ここにこれらを引用し、これに対し当裁判所は、事実の取調を行なったうえ、次のとおり判断する。

一、検察官の所論は、原判決は、

被告人は、かねて遊興にふけり金銭に窮していたところ、昭和四一年一月二四日午後一一時一〇分頃、東京都北区東十条四丁目一三番地東十条郵便局前の通称東十条バス通りを飲酒徘徊中、偶々泥酔して同郵便局前付近を通りかかった麻雀屋店員伊藤哲子(当三八年)の姿をみとめるや、付近に人通りのないのを奇貨とし、同女から金品を強奪し、かつ同女を姦淫しようと決意し、同女の傍に走り寄り、いきなりその右腕を掴んで同郵便局南側木戸口から同郵便局中庭の暗がりに引き摺り込み、同女に抱きついて無理矢理接吻し、同女が悲鳴を上げるや、にわかに殺意を生じ、咄嗟に左手で同女の口を塞ぎ、右手でその頸を絞めながら、その場に仰向けに押し倒した後、馬乗りになって両手で同女の首を強く絞めつけ、仮死状態に陥った同女のスカート、ズロースなどを剥ぎとり、強いて同女を姦淫し、ついで同女のトッパーコートのポケット内から現金三、〇〇〇円余および国鉄定期乗車券在中の財布一個を抜き取ってこれを強取し、右頸部扼圧により、間もなく同所で同女を窒息死させて殺害し、更に一旦同所を立ち去った後、翌二五日午前一時頃再び同所に舞い戻り、同女の右手首およびトッパーコートのポケット内から女物腕時計ほか三点(時価合計一、〇〇〇円位)を奪い、これを強取したものである(罰条刑法第二四〇条後段、第二四一条前段)。

との公訴事実に対し、認定した事実関係は、

(一)  まず、被害事実につき、

「昭和四一年一月二四日午後一一時五分頃から翌二五日午前五時四五分頃までの間に、東京都北区東十条四丁目一三番地東十条郵便局(同郵便局は、局長遠藤泰司方居宅と棟続きになっているもの)中庭において、同区東十条四丁目一二番地美幸荘内に居住する伊藤哲子(当三八年。以下被害者と略称する。)がスカート、ズロースなどを剥ぎ取られて強姦され、かつ、頸部を扼圧されて窒息死していること、被害者所有の定期乗車券(国鉄東十条駅から地下鉄神谷町駅間のもの)、女物腕時計、手袋半双、封書(手紙二枚同封)が奪取されていることをそれぞれ認めることができる。」とし、

(二)  ついで、被害発見前後の状況につき、

「東十条郵便局局長遠山泰司は、同年一月二五日午前七時五分頃、飼犬の散歩のため、同家勝手口から戸外に出て玄関付近まで来たところ、女性の変死体(被害者)を発見し、直ちに警視庁王子警察署東十条派出所に届出たこと、同日午前七時二七分頃王子警察署係官が現場に到着し、直ちに捜査を開始し、午前九時頃警視庁捜査一課係官が現場に出動し、事件の引き継ぎを受けて捜査を続行したこと、それより前の同日午前五時四五分頃新聞配達人大野稔が右東十条郵便局南側木戸口から同郵便局中庭内に入り、右玄関先にあった女性変死体の足許をよけるようにして、玄関左側の戸の隙間から新聞を差し込み、直ちに引き返したが、同人は当時早朝のためまだあたりが薄暗く、新聞配達のため急いでいたこともあって、単に酔払いが寝ているものと考え、その傍を通り過ぎたことが認められる。」とし、

(三)  さらに、被害者の昭和四一年一月二四日の行動につき、

「被害者は、東京都港区芝神谷町二一番地麻雀荘「いこい荘」に店員として勤務していたものであるが、昭和四一年一月二四日午後六時すぎ頃、同郷の小賀坂喜八と会うため勤務先を早退し、午後七時頃赤羽駅前で同人と会い、同駅付近で立話をしたうえ、みかん二〇〇円、柿一五〇円を買って貰い、午後八時二〇分頃同人と別れたのち、午後九時すぎ頃東京都北区神谷一丁目一〇番地大衆酒場『喜良久』こと今関マサ方に入り、銚子四本、煮込みなど合計三六〇円の飲食をしたが、その際今関マサに対し、赤羽でビール四本を飲んで来たといい、同店に入った当切から少し酔っていたこと、飲食後午後九時五五分頃同店座敷にあった電話を借用して植木原彬延に電話を掛けたが、そのときには相当酩酊し、ろれつがまわらない位で体もよろけていたこと、被害者は電話を掛け終ってから直ぐ代金三七〇円(電話代一〇円を含む。)を支払って同店を出て、同店前でタクシーに乗り立ち去ったこと、被害者は午後一〇時頃から同一一時五分頃までの間東十条郵便局前の通り(以下東十条バス通りと略称する。)を泥酔のうえ徘徊し、同日午後一〇時すぎ頃東十条郵便局右斜め向い側の高田方の軒下で、膝小僧を丸出しにして不体裁な格好でうずくまり苦しそうに嘔吐していたところを、同所を通行した市川淑子から介抱され、三人連れで同所を通行したうちの一人猪狩勝利および東十条郵便局向い側の映画館日本館(高田方の北隣)に住み込みで勤務している増尾喜一も被害者が介抱されているのを目撃したこと、同所を通行した水沢静吾は東十条郵便局の南一軒置いた宮崎貸本屋の前で道路側に向かいスカートがまくれ、下着が見えるような状態で道路上にしゃがみ込んでいた被害者を目撃し、磯野太郎は午後一〇時二〇分頃右高田方の南一軒置いた釣具屋桑原方前でうずくまっている被害者の傍を通って日本館の北隣の中華料理店『イスクラ』に入り、同店店員らに店外に若い綺麗な女の酔払いがいる旨告げたところ、店員らが店外に被害者を見に出たこと、磯野太郎は、飲食後の午後一〇時四五分すぎ頃右『イスクラ』を出て帰宅の途中、被害者が東十条郵便局南側の木戸の左側(信濃屋ふとん店との境付近)にあった空箱に俯伏せになっているところを目撃し、右『イスクラ』の経営者の息子行田敏夫は、客の磯野太郎から右のように美人の酔払いがいる旨を告げられ、直ちに店外に出て見たところ、高田方シャッターに寄りかかっている被害者を目撃し、また午後一〇時三〇分頃に再度店外に出て見たところ、被害者が東十条バス通りの高田側から信濃屋ふとん店側に、前に行ったり後ろに戻ったり千鳥足で横断するのを目撃し、宮村茂は、午後一〇時五五分頃付近の長野屋食堂から東十条郵便局南側木戸口を通って路地奥の遠山泰司の経営する下宿先に帰る途中、右木戸左側にあった空箱に被害者が酔払って俯伏せになっているのを目撃し、午後一一時五分頃、風呂に行くため下宿から右木戸を通った際、被害者が前と同じ場所で俯伏せたまますすり泣くような声を出しているのを見聞したこと、被害者を目撃した右通行人らは、すべて被害者が一見して泥酔していることがわかったこと、午後一一時四五分頃には、同所付近を通った風呂帰りの右宮村茂、二匹の犬を散歩させていた入山里子は、右郵便局南側の木戸口付近及び東十条バス通りに被害者を見なかったこと、高田方軒先に一箇所、郵便局南側木戸の左側にあった空箱付近に二箇所、被害者がしたものとみられる嘔吐物が存在し、また、被害者の婦人用黒布製手袋左半双が宮崎貸本屋前道路上に落ちていたことをそれぞれ認めることができる。右認定事実及び前記認定の被害発見前後の状況によれば、昭和四一年一月二四日午後一一時五分頃までは被害者が生存していたこと、翌二五日午前五時四五分頃には被害者が東十条郵便局中庭内に屍体となっていたことが認められ、山沢鑑定書によれば、屍体は、死後解剖着手時の同年一月二五日午後二時二八分までに半日前後経過しているものと推定されている。」とし、

(四)  そして、被告人の昭和四一年一月二四日夕方から翌二五日にかけての行動について、

「被告人は、昭和三九年八月頃から東京都北区神谷町一丁目六番六号の高橋三好方に住み込み大工として雇われ、当初日給一、七〇〇円、同四〇年九月からは日給一、八〇〇円の収入を得ていたものであるが、同四一年一月六日頃からは右高橋の指示により相沢建設株式会社の仕事に従事し、同月一七日からは横浜市中区山下町所在の朝日運輸株式会社の寮に泊り込み、同会社の寮、倉庫、事務所の増築工事に従事していたものであるところ、同月二四日は午後五時三〇分頃まで稼働した後、国鉄桜木町駅から京浜東北線電車に乗り東十条駅で下車し、午後八時ないし八時三〇分頃東京都北区東十条四丁目四番地バー『ハンター』こと内野常吉方(以下『ハンター』と略称する。)に至り、午後一〇時三〇分ないし四〇分頃までの間、日本酒銚子一三本など合計三、一五〇円の飲食をし、右代金中二、〇〇〇円を支払って同店を出たが、同日午後一一時二〇分頃再び『ハンター』に入って来て、第一回の残代金一、一五〇円を支払ったうえ、翌二五日午前零時頃の閉店までの間、日本酒銚子二本など合計九〇〇円の飲食をしたが、二回目の分はつけにして同店を出たこと、被告人は同店を出るや『ハンター』の女給広江ヒロ子の帰宅途中を追いかけ、同女が仁平彬に送られて帰るのに追い付き、右仁平と口論した後、翌二五日午前零時三〇分頃広江ヒロ子の住居である同都北区中十条二丁目二番地梢荘付近において、右広江ヒロ子、仁平彬と別れ、高橋三好方に帰ったが、すでに玄関等出入口は鍵がかけられていたため、同人の使用人篠原脩らが就寝していた四畳半の部屋の窓から屋内に入り、就寝していたことが認められる。」とし、

右被告人の行動のうち、公判審理の過程で、主として問題となったのは、(1)被告人が一月二四日午後一〇時三〇分ないし四〇分頃「ハンター」を出て、同日午後一一時二〇分頃再び「ハンター」に現われた間の行動、(2)翌二五日午前零時三〇分頃広江ヒロ子、仁平彬と別れてから高橋三好方に帰るまでの間の行動および高橋三好に帰った時刻、(3)「ハンター」を一旦出る時に飲食代金のうち一部だけしか支払わなかった理由および二回目に「ハンター」に来た際支払った初回の飲食代金の残金一、一五〇円の出所の三点であるとしたうえ、本件においては、被告人の捜査段階における自白調書を除き、一件記録および証拠物を検討しても、犯行現場における犯人の足跡採取ができなかったこと、犯人の血液、精液などの採取判別ができなかったことはもちろん、他方、犯行現場または兇器、遺留品、奪取後の投棄物などに被告人の指紋、血液、精液、足跡などが残されていたとか、被告人が賍品を所持し、または、その処分先から賍品が発見されるなど、被告人の身辺に本件犯行と直接結びつく物的証拠もなく、かつ、被告人が本件強盗強姦、強盗殺人を敢行するのを目撃したという者の供述もない旨判断し、さらに残された被告人の自白調書のうち、まず司法警察員に対する供述調書九通および司法警察員作成の捜査報告書添付の被告人作成の上申書一通については、本件捜査が別件の無銭飲食詐欺被疑事件に基づく違法な逮捕勾留を利用して、約六九時間の長期間にわたり、かつ、その取調方法にも妥当でないものがあった疑いがあるなどの理由により、被告人の自白の任意性につき疑いがあって、その証拠能力を認めるに故なしとしてこれを排斥した。ところが、被告人の検察官に対する昭和四一年二月二四日付、同年三月一〇日付、同月一二日付各供述調書計三通および裁判官に対する勾留質問調書については、「警察における取調期間中または取調終了後間もなく作成されたものであるけれど、被告人自ら、検察官からは取調時間、取調方法などにつき無理な取調はなされなかった、と述べているし、当裁判所の取り調べたすべての証拠に徴しても、検察官、裁判官に対する各供述は、強制、拷問または脅迫による自白、不当に長く抑留または拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑いのある自白のいずれにも該当するとは認められない。」として、その任意性だけを認めて証拠調をなしたものの、この検事調書は前記違法な逮捕勾留を利用して取り調べた警察官に対する自白の直後に作成されたものであって、その内容には種々の疑問があるほか、被告人が検察官に対して犯行を一旦否認しながら、また自白するに至った事情のあることをも考え併せると、右自白調書全体の信用性についても疑問があり、右検事調書三通をもってしては、本件犯罪の証拠とすることはできず、かつ、被告人には本件犯行時間帯である一月二四日午後一〇時三、四〇分頃「ハンター」を一旦出てから、同日午後一一時二〇分頃再び右「ハンター」に現われるまでの間、近くの同都北区神谷町一丁目二五番地所在バー「ベラミー」こと梅山茂子方に約一五分位立ち寄っていたものと窺えるアリバイがあるものと推断し、本件犯罪の証明は不十分であるとして被告人に無罪の言い渡しをしたのであるが、原判決の右認定には、重大な事実の誤認があり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるからとうてい破棄を免れないという旨の主張であって、その理由として、(1)被告人の検察官に対する自白調書には信用性があること、(2)被告人には真犯人と思われる言動があったこと、(3)被告人の主張するアリバイは認められないこと、(4)被告人の司法警察員に対する自白調書などには任意性があることの四項目を掲げてその根拠とされる事情を縷説している。

二、よって案ずるに、

(一)  本件記録によれば、原判決が被害事実、被害発見前後の状況、被害者の昭和四一年一月二四日の行動、被告人の昭和四一年一月二四日夕方から翌二五日にかけての行動として指摘した前掲各事実および右被害事実が強盗強姦、強盗殺人の犯行により生じたものであることをいずれも肯認することができる。

(二)  そして、記録によれば、本件犯行が被告人の所為であることを示すとされる直接証拠は、次に掲げる被告人の捜査段階における自白のみである。すなわち、本件については、被告人の司法警察員に対する(1)昭和四一年二月一八日付、(2)同日付、(3)同月二三日付、(4)同月二五日付、(5)同月二六日付、(6)同月二八日付、(7)同年三月三日付、(8)同月四日付、(9)同月七日付全九通の各自白の供述調書および(10)被告人の司法警察員に対する同年二月二一日付自白の上申書一通が作成されており、また、(11)被告人の司法警察員に対する自白の供述を同年二月二二日に録音したテープ二巻があり、つぎに、被告人は検察官に対しては、一旦は否認したがまた自白するに至った結果、被告人の検察官に対する(12)同年二月二四日付、(13)同年三月一〇日付、(14)同月一二日付計三通の自白の供述調書が作成されており、また、(15)右検察官に対する右(13)、(14)の自白の供述調書と同一内容の被告人の供述を録音したテープ三巻があり、その他(16)裁判官の被告人に対する同年二月二四日付自白の勾留質問調書が存在する。そして原審公判において、検察官は、右(1)ないし(16)のすべてにつきその取調請求をしたが、原裁判所は、そのうち右(12)、(13)、(14)、(16)の被告人の検察官および裁判官に対する各自白調書のみを採用し、他はいずれもこれを却下した。とりわけ、原裁判所は右(1)ないし(10)の被告人の司法警察員に対する各自白調書および自白上申書については、被告人に対し同年二月一五日に行なわれた違法な詐欺罪による別件逮捕およびこれに引き続き同月二二日まで行なわれた同罪による勾留を利用して六〇数時間の長きにわたり本件強盗強姦、強盗殺人罪の取調が行なわれた(ちなみに、右(1)ないし(10)のうら、(1)、(2)の各自白調書計二通および(10)の自白の上申書一通は、その六〇数時間の期間内に作成されたものである。)こと、被告人の原審公判における供述その他本件にあらわれた証拠によれば、その取調の方法にも妥当でないものがあったことを理由とし、右(1)ないし(10)のすべての被告人の自白の任意性に疑いがあるとして、右(1)ないし(11)の取調請求をいずれも却下したところ、検察官は、当審公判においても、重ねて右(1)ないし(11)の取調を請求したが、当裁判所は、原審および当審公判にあらわれた証拠に基き考察した結果、いずれも任意にされたものでない疑いのある自白で証拠能力がないと認めて、すべてこれを却下した。それゆえ、本件の事実認定のために用い得る直接証拠は、前記(12)、(13)、(14)、(16)の被告人の検察官および裁判官に対する各自白調書および当審において新たに採用した前記(15)の録音テープ三巻のみであるが、これらの自白の信用性については、後に(四)において説示する。

(三)  つぎに、本件犯行の物的証拠、状況証拠等について検討するに、東京都北区東十条四丁目一三番地東十条郵便局中庭植込内の屍体と通称東十条バス通りの間に存在した足跡五個(これを採取したものが東京高等裁判所昭和四二年押第四一三号の三一)、押収にかかるトッパーコート(前同押号の一九)の右肩の部分に付着している著明な足跡一個と裏側裾の部分に付着している靴型の足跡一個および押収にかかるスカート(前同押号の三)の裾の部分に付着している足跡のうち、右コート、スカートに付着した三個の足跡について鑑定した証拠はなく、したがって、右三個の足跡と被告人との結びつきは、なんら存在しないこと、前記犯行現場に存し、かつ採取された足跡五個のうち、1号足跡が警察官西田利美使用の短靴の底型模様によく類似し、その他の各足跡は、同短靴の底型模様にやや類似するというのであるから、これらの足跡が犯人の足跡であるという可能性は少なく、また、右足跡五個が、いずれも被告人の靴によって印されたものとはいえず、このことは、右足跡が被告人とはなんらの結びつきがないことを意味すること、および被害者伊藤哲子の着用していた押収されているズロース(前同押号の二四)、スカート、シュミーズ(前同押号の四)から採取にかかる血液、精液自体からは、犯人のそれを特定することはできないし、いわんや、これをもって被告人が犯人であるかどうかを断定することのできないことを証拠により認めた原判決の判断(原判決書二四頁四行目から四〇頁三行目まで)は、当裁判所においても、正当として是認することができ、当審における事実取調の結果によっても、これを左右することはできない。また、証拠物を含めた記録を調査しても、本件強盗強姦、強盗殺人の犯罪事実と被告人とを結びつけるのに役立つ物的証拠たとえば、犯行現場または兇器、遺留品、奪取後投棄した物などの証拠物に被告人の指紋、血液、精液、足跡が残されていること、被告人が賍物を所持し、またはその処分先から賍物が発見されるなど被告人の身辺に犯行と結びつくものがあることなどを認めるに足る証拠や、被告人が本件強盗強姦、強盗殺人の所為を行なうのを目撃したという者の供述などは、これらを見出すことができないから、この点に関する原判決の判断(原判決書四〇頁五行目から同頁一四行目まで)も正当であり、ことに、鎌田勇蔵の司法警察員に対する供述調書、司法警察員中村一善ほか一名作成の昭和四一年一月二五日付遺留品発見報告書、右司法警察員ら作成の同月二六日付遺留品発見状況報告書、司法警察員中村一善作成の昭和四一年一月二五日付領置調書、押収にかかる手紙一通(前同押号の七)、封書一通(前同押号の八)、コンパクト一個(前同押号の九)、手袋黒色右半双(前同押号の一〇)を総合すれば、昭和四一年一月二五日午後四時頃東京都北区東十条五丁目三番地の九鈴木栄一方前溝内において発見され、犯人が投げすてたものと推測される丸められた便箋二枚の手紙、封筒の破いた細片(小賀坂喜八から山田哲子あてのもの)、コンパクト一個および女物手袋からは、いずれも指紋保全措置がとられたが被告人の指紋が検出されていないことが明らかであるばかりでなく、前記各証拠および山田善蔵の司法警察員に対する昭和四一年二月一日付、同年三月四日付各供述調書、山田善蔵の検察官に対する供述調書、植木原彬延の検察官に対する供述調書を総合すると、被告人が右各押収物件を奪取したという自白を裏付けるに足る証拠はなに一つ存在しない。つぎに、財布(国鉄定期乗車券が在中していたとされるもの)および女物腕時計について記録を調査すると、原審第三回公判調書中証人山田善蔵、同土橋成吉の各財布のような物の形態などについての供述記載部分、山田善蔵の司法警察員に対する昭和四一年二月一日付、同年三月四日付供述調書二通および検察官に対する供述調書中の各財布のような物の形態などに関する供述記載部分を総合すれば、被告人が、その自白調書中でいっているような二つ折の財布を被害者が所持し、事件当日の昭和四一年一月二四日にもこれを携帯していたとの事実を裏付ける証拠はない旨の原判決の判断(原判決書八八頁五行目から九一頁三行目まで)は正当であると認められ、所論に副う証人山田善蔵の当審公判廷における供述部分は信用することができず、当審証人植木原彬延に対する尋問調書中の被害者が持っていたとする二つ折の定期券入れに関する供述記載部分は、すこぶるあいまいであるので、措信できない。また、原審第三回公判調書中証人山田善蔵の母である被害者の持っていた腕時計についての供述記載部分、山田善蔵の司法警察員に対する昭和四一年二月一日付供述調書および検察官に対する供述調書中の右腕時計に関する各供述記載によれば、被害者の所持していた腕時計が奪われたということは認められるが、被告人が腕時計を奪取したという自白を裏付けるに足る証拠はない。とくに、その腕時計を投棄したという場所についての被告人の供述が転々として変化し、しかもその時計は、いまだに発見されていない。

(四)  そこで、前記(二)の(12)ないし(16)の自白の信用性について考察するに、その供述内容を仔細に検討し、ことに、原審公判調書中証人広江ヒロ子、同内野常吉、同篠原脩、同高橋三好、同宮村茂、同原進吾、同土橋成吉、同山田善蔵、同青木光三郎、同横沢宏、同田中哲治、同行田敏夫の各供述記載、原裁判所の証人高橋光子に対する尋問調書、鎌田勇蔵、今関マサ、市川淑子、増尾喜一、猪狩勝利、水沢静吾、磯野太郎、遠山玲子の司法警察員に対する各供述調書、小賀坂喜八、山田善蔵の司法警察員に対する各供述調書二通、山沢吉平の検察官に対する昭和四一年三月一四日付供述調書(四枚のもの)、増尾喜一、山田善蔵、大野稔、植木原彬延の検察官に対する各供述調書、司法警察員小日向阿久由作成の検証調書、原審の検証調書、鑑定人医師山沢吉平ほか一名共同作成の鑑定書、警視庁技術吏員菊池哲作成の鑑定書三通、司法警察員中村一善ほか一名作成の昭和四一年一月二五日付遺留品発見報告書、右司法警察員ら作成の同月二六日付遺留品発見状況報告書、前記の各押収物件と対比すると、犯人でなければ知ることのできないと思われる事実についての供述を含み、さらに、客観的事実に合致する点もないわけではないが、他面不自然不合理な点も幾多存在することは原判決において指摘するとおりである。たとえば、いかに被告人が、犯行の当夜相当多量の飲酒をして酔っていたにしても、被害者を目撃した者は、すべて被害者が一見してひどく酔っていることに気付いているように被害者は高度に酩酊しており、いわば泥酔の状態にあったものと認められるにもかかわらず、被告人は、この被害者の泥酔という異常な様子について、まったく述べていないばかりでなく、被告人は、被害者を東十条郵便局中庭内に引きずり込み、同所において、被害者を姦淫する前に被害者と二度接吻をしたというのであるから、このような接吻するなどの行為をした際には、高度の酩酊状態にあった被害者の悪口臭などに当然気付くはずであるのに、かかる被害者の特異な状態についても、なんら触れていない。また、被告人が奪取して投げ捨てたと述べている被害物品中、すでに被告人が逮捕される前に発見され、捜査官が投棄場所を知っていた被害物品、すなわち、コンパクト一個、手袋半双、封書一通についてのみ被告人の供述と投棄場所が一致するだけで、被告人の供述によってはじめて投棄場所が指摘された被害物品、すなわち、最も重要な二つ折財布一個、女物腕時計については、それが発見されず、その所在が今なお不明である。これらの諸事情を総合して勘案すると、被告人の自白が真実に合するものと断ずるに十分な心証がえられず、当審における事実取調の結果によっても、これを左右することはできないから、被告人の自白の信用性について疑問があるとした原判決の判断は正当であると認められる。

これを要するに、本件において、被告人の自白の信用性に疑いがあり、その他本件犯行が被告人の所為であると認めるに足る確実な具体的な証拠は存在せず、当審における事実取調によってもこれを発見することができなかったから、本件犯罪の証明は不十分であるとして被告人に対し無罪を言い渡した原判決は正当であり、検察官のその余の論旨に対する判断をするまでもなく、本件控訴はその理由がないものといわなければならない。

よって、刑事訴訟法第三九六条により、本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 飯田一郎 判事 吉川由己夫 判事 小川泉)

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